京都伝統文化の森プロジェクト

コラム

2021年11月12日 伝統文化の森

京都三山に眠る文化遺産
梶川敏夫(京都伝統文化の森推進協議会 文化的価値発信専門委員)

京都三山に眠る文化遺産

 
 
1 はじめに

 

京都市内には、指定文化財の建造物や美術工芸品など、全国の国宝の約18パーセント、重要文化財の約14パーセントがあり、全国屈指の文化財保有数を誇ります。
 
そのほか、京都盆地内には埋蔵文化財と呼ばれる平安京跡や六勝寺跡、鳥羽離宮跡、伏見城跡など、歴史上でよく知られる大規模な遺跡が存在し、これらの遺跡は長い京都の歴史の中で、人々によって各時代に造られたものが崩壊しながらも、その一部が遺構や遺物となって土の中に残っているためです。
 
それと合わせて、京都盆地周辺の山間部にも多くの遺跡の存在が確認されており、ここでは三山に残る遺跡についてご紹介したいと思います。

 
 
 
2 周辺の山に残る遺跡

 

京都市周辺の南を除く東・西・北には、いわゆる京都三山が京都盆地の三方を取り囲み、かつてこの山域には、西暦794年に平安京が遷都されるはるか以前から人々の生活の場が存在していました。
 
例えば、右京区山間部の標高180mほどにある菖蒲(しょうぶ)谷(たに)遺跡や、標高370mほどある沢ノ池遺跡などは、旧石器時代(約15,000年以上前)にさかのぼる遺跡で、池の周辺から石(せき)鏃(ぞく)などの石器が見つかることがあります。
これは、京都盆地周辺に水稲稲作がまだ伝わっていない時代、人々は狩猟による動物の獲物や川魚、草木、木の実などを食べ、家族単位や少数の集団で生活をしていました。そのため自然豊かで食べ物が豊富な山間域が人々の主な生活の場でした。
 
約15,000年前の土器が作られ始める縄文時代になると、山裾や平地部分にも集落が形成され、狩猟採集の生活のほか果樹や畑などでも栽培が行われるようになります。
 
その後、弥生時代に入り水稲稲作が伝わって平地部分に水田が作られるようになると、人々は平地へ村を作って定住するようになり、河川や湖沼など水資源の便利な平地に多くの集落が営まれるようになります。
 
次の3世紀後半からの古墳時代に入ると、山間部に古墳が築かれるようになり、特に前方後円墳や円墳など古墳時代前期の古墳の多くが、山の頂部や尾根上に築かれるようになります。
 
京都盆地周辺の丘陵や頂部に築かれた古墳の古い例では、西方の西山周辺では山田桜谷古墳、五塚原古墳、元稲荷古墳、寺戸大塚古墳などがあり、東方では稲荷山の峰の頂部に稲荷山一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰古墳のほか、伏見城のあった木幡山の南東尾根上に築かれた黄金塚1号、2号墳などが知られます。さらに古墳時代後期(6~7世紀前半)になると、嵯峨野周辺や松尾山、稲荷山などには古墳が集中的に築かれる群集墳などが山間域から平地部にかけて築かれるようになります。
 
やがて天皇を頂点とする律令国家が成立する過程で、6世紀代に入ると大陸から我が国に仏教が伝わって、最初は奈良県の飛鳥地方に仏教寺院が建立され、やがて全国へと寺院建立が広まっていくことになり、それまであった日本固有の神祇(じんぎ)信仰(しんこう)と外来の仏教が融合(神仏習合)していきます。
 
この頃の京都盆地では、『古事記』には比叡山や松尾山は大山咋(おおやまくいの)神(かみ)の記述がみられ、松尾山の山頂近くには磐座(いわくら)があります。また、上・下賀茂社の御神体としての神山(こうやま)や御蔭山(みかげやま)などの例や伏見稲荷大社背後の稲荷山など、神が降臨する聖なる場所としての神域が山に象徴されるようにもなります。
 
また飛鳥時代から白鳳時代にかけては、京都盆地内にも仏教寺院が建立されるようになりますが、平安時代に入ると最澄や空海などの僧たちが、当時、仏教の憧れの地であった大陸の唐の国へ渡り、新しい密教が我が国にもたらされ、やがて山岳域には比叡山の比叡山寺(後の延暦寺)に代表される山林寺院が建立されるようになります。
 
また11世紀末以後は、末法思想(釈迦の入滅以後、年月がたつにつれて正しい教法が衰滅するという思想)の流行と共に、経典などの仏具を未来に伝え残すため、小石室を設けて甕(かめ)などの容器に納めて塚とした経塚が、平安京周辺の山間域にも築かれるようになります。これは現在でいうタイムカプセルのようなもので、鞍馬山経塚などがよく知られています。
 
平安時代の平安京周辺の山々は、個人所有以外に貴族や地域を治める土豪などの領地、あるいは寺社の境内地となり、山は野草や動物の狩場、薪などの燃料調達や炭焼き、製鉄(タタラ)、瓦や土器などを生産するための燃料などを調達するための貴重な資源となりました。
 
その後の戦国時代に入ると、京都は天皇や将軍の居所がある政治都市である関係も含めて、将軍家や地域の豪族たちによって山域には多くの山城が築かれるようになります。
 
やがて16世紀後半の安土桃山時代になると、織田信長のいわゆる「天下布武」やその後の豊臣秀吉による「天下統一」などを経て、盆地の中央部にも聚楽第や二条城などの平城が築城されるようになり、山城は次第に使用されなくなります。
 
このような時代の流れのなかで、京の都に住む人々にとって周辺の山々は貴重な水資源の場であり、木材のほか果実や山菜、動物、薪など生活に必要なものを提供してくれる不可欠な場所として利用されてきました。

 
 
 
3 山林寺院

 

以上のとおり、京都の長い歴史のなかで山間域にある遺跡を中心にご紹介してきましたが、ここではもう少し詳しく山間域の遺跡について探っていきましょう。
 
先述のとおり、山間域にある遺跡として古墳のほか、寺社跡や山城跡、平安時代後期頃からの経塚跡、生産遺跡とも呼ばれる炭窯や製鉄遺跡(タタラ跡)、山裾には瓦窯や土器生産窯などをご紹介してきましたが、その多くは京都という政治都市ならではの遺跡が山中に残されているのも特徴です。
その中で、皇室の創建に関わる山林寺院について詳しく見ていきましょう。
 
仏教が我が国に6世紀中頃に公伝され、飛鳥時代の7世紀頃から、奈良県の飛鳥地方を中心に多くの寺院が建立されていきますが、やがて7世紀中頃の白鳳時代になると全国に仏教寺院が建立されるようになります。
京都市内でも、北野廃寺・広隆寺・北白川廃寺・大宅廃寺・法観寺・樫原廃寺など、飛鳥時代から白鳳時代にかけて創建された寺院が知られ、広隆寺や法観寺は現存します。これらの古代寺院は地域毎に建立され、現在の地域における文化ホールのような役割を持っていました。
 
その後、先述のとおり平安京遷都を経て最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)などが、大陸にあった仏教聖地の唐の国を目指し、命がけで渡海して新しい仏教(密教)を我が国に伝えます。
そして、平安京周辺の峰々にも比叡山の延暦寺(天台宗)や高尾の神護寺、醍醐山の醍醐寺上寺など山林寺院が創建され、その後に発展して現在に至るまで法灯を継承し続けています。
 
しかし、一方で山林寺院は山の自然地形を克服して創建されながらも、立地条件を含めて寺院経営は極めて困難で、支援してくれる人も無くなって無住となり、あるいは寺が戦乱に巻き込まれたことなどにより大半の山林寺院は廃絶していきます。
 
現在、平安時代に平安京周辺の山域に建立された山林寺院で、現存する寺院や廃絶したものを含めると20箇所以上が知られます。
筆者は、これまで山域にある多くの遺跡を踏査し調査を続けてきましたが、特に東山の如意ヶ嶽周辺にある遺跡群を詳しく踏査し、多くの遺跡の実態を明らかにしてきました。
そのなかで、特に遺跡が良好に残っている安祥寺上寺跡について簡単にご紹介します。
 
山科区北方の京都府立洛東高校の西隣に安祥寺という寺があります。元は平安時代前期に創建された真言系の寺院で、山上と山下に寺がありました。安祥寺山(標高約400m)の南山腹にあった上寺は古くに廃絶し、下寺は江戸時代に現在の場所に移転して現存します。
 
この寺は平安時代前期、仁(にん)明(みょう)天皇の女御である藤原順子(のぶこ)が願主となり、唐へ渡り帰国した恵(え)運(うん)という僧が開基となって848年に創建され、順子より先に亡くなった夫の仁明天皇や子の文徳天皇の菩提を弔うために、皇室の後ろ盾を得て大きく発展した寺です。
恵運が書き残した『安祥寺資財帳(重要文化財)』の写し今に伝わり、それには寺にあった寺宝や寺領などが詳しく記述され、当時の寺の様子が分かる史料として大変貴重なもので、上寺には礼仏堂、五大堂、僧房、客亭、浴堂などの建物があったことが分かります。
 
願主の順子は左大臣の藤原冬嗣の娘で、兄には最初に人臣摂政となった藤原良房(よしふさ)や弟には右大臣となった藤原良相(よしみ)がいます。最近の発掘調査で良相の平安京の住まいであった西三条第(百花亭)跡が、JR二条駅の西側から見つかり話題となったことをご存じの方もおられると思います。
順子は、このように絶大な権力を持った藤原北家の父や兄弟などの後ろ盾があり、856年には上寺の周辺の五十町(約594,000㎡)という広大な土地を買い上げて寺に寄進しています。
 
その後、15世紀後半の応仁・文明の乱以後には上寺は廃絶してしまいますが、2002年からの京都女子大学考古学研究会の調査で多くの建物跡を示す礎石が見つかり、京都大学の全面的な協力を得て測量調査が行われ、資財帳に記載された礼仏堂や五大堂、東・西僧房などの建物跡が極めて良好に残っていることが判明しました。
 
また、この上寺の礼仏堂にあったとされる国宝の五(ご)智(ち)如来(にょらい)座像(ざぞう)のほか蟠(ばん)龍(りゅう)石柱(せきちゅう)(伴に京都国立博物館寄託)や、五大堂に安置されていたとされる東寺の観智院の本尊で重要文化財の五(ご)大虚空蔵像(だいこくうぞうぞう)などが伝わり、当時の上寺の荘厳さの一端を伺い知ることができます。
 

 
安祥寺上寺想像復元図(南東から)
 
 
 

4 山に残る遺跡の魅力

 

山間域に残る遺跡の魅力は、埋没しほとんど地上に痕跡を残さない平地にある平安京跡や長岡京跡などの遺跡と比べて、建物跡や築地跡、山城跡では曲(くる)輪(わ)や土塁(どるい)跡、堀跡などの遺構が地形上に痕跡を留めており、発掘調査で掘削をしなくても、遺構の情報をある程度知ることができるという利点があり、それが平地に残る遺跡と比べ、山域に残る遺跡の魅力でもあります。
 
このように、山域に遺跡が残されてきたのは、過去に人的な開発の手が及ばなかったためであり、また、過去の人々の知恵により、災害に脆弱な土地を選ばず、維持についても後年に手がかからないような場所を選んで造られていることも、遺跡が残った大きな理由でもあります。
 
しかしながら、近年来の異常気象による風水害は、これまでとは異なり、遺跡内に植林されていたスギやヒノキが強風によって根返りした例や、山腹斜面の土砂崩れで遺跡が埋まるなど、破壊が危惧されている所も多くあります。また、遺跡の存在が周知されず、山林内での工事によって知らぬ間に遺跡が破壊され、二度と元には戻せない残念な結果となった遺跡もあります。
 
数百年から千年以上前に造られ、これまで奇跡的に残ってきた山域に残る遺跡は、歴史の実態を知る上からも大変貴重な国民の財産です。しかし、近年の異常気象の影響でその保存が危機に瀕しているのも事実であり、このような遺跡を、今後どのようにして調査し保存、維持、管理していくかなど、これからの大きな課題のひとつであります。
 
皆さんも、京都三山に登られたときに、城跡や寺跡などの遺跡があることに注目して歩いてみてください。新しい未知の遺跡の発見に繋がるかもしれません。
 
 

文責:梶川敏夫 京都伝統文化の森推進協議会

文化的価値発信専門委員 京都女子大学文学部史学科非常勤講師

 

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