京都伝統文化の森プロジェクト

コラム

2020年11月16日 伝統文化の森

長岡京と平安京
梶川敏夫(京都伝統文化の森推進協議会 文化的価値発信専門委員)

筆者は八幡市に住まいしているが,今春からの新型コロナ対策のためマイカーで国道1号線を通勤先である京都市内を目指し,前方右側に比叡山,左に愛宕山を眺めながら1時間余りを通勤時間に費やしている。
 
その途中に思うのであるが,平安京があった平安時代にさかのぼれば,南方から都を目指して走っていることになる。左側の桂川右岸には,桓武(かんむ)天皇の命により西暦784年にそれまでの奈良の平城京から遷都された長岡京がある。この都は約10年を経て廃都が決定され,北方の京都盆地中央部に平安京遷都が敢行された。同じ天皇により二度も遷都の大事業が行われたのである。
 
毎朝この風景を見て走っていると,造営途中の長岡京がなぜ短命で廃都され,新たに平安京遷都をしなければならなかったかという素朴な疑問が浮かんでくる。
 
平安京があった京都盆地を南から見ると,比叡山と愛宕山が東・西に鎮座し,それを結ぶ低級な北山の山並みが背後に続いて両山を際立たせている。さらに,両山から南方には東山と西山が連なり,盆地内には東に鴨川,西には桂川が流れて宮都を置くには相応しい地形,つまり四神相応の地勢をしており平城京も似た地形であることはいうまでもない。
 
『続日本後紀』延暦3年(784)5月には,長岡京遷都予定地を藤原小黒麻呂(ふじわらおぐろまろ)や佐伯今毛人(さえきのいまえみし)ら8名の官人たちが長岡の地を視察に訪れているが,平城京に住む彼らが次の遷都地である長岡を見に来た時,北方の京都盆地の地形が目に入らない訳がない。ではなぜ,桓武天皇は平城京から京都盆地に直接都を遷都せず長岡京への遷都を決定したのであろうか。
 
長岡京造営初期段階では造営長官の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され,その黒幕が桓武天皇実弟で皇太子の早良(さわら)親王であるという疑いがかけられ,廃太子されて乙訓寺(おとくにでら)へ幽閉,親王は無実を訴え絶食後10余日を経て,淡路島への配流の途中に淀川の舟中で憤死された。
 
その後,天皇近親者の相次ぐ急逝や自然災害のほか,天皇実子の安殿(あて)皇太子の病を陰陽師に占わせたところ早良親王の祟りと出た。桓武天皇はそれらを怨霊の祟りとして恐れ平安京へ遷都したとするのが「怨霊説」である。それに対して,京域に隣接する桂川や京内を流れる小畑川の氾濫等のために遷都を余儀なくされたとする「洪水説」がある。
 
長岡の地を見ると,東に桂川,西に丹波道,北には山が控え南方には巨椋池(おぐらいけ)もあり,四神相応の地といえなくもない。さらに宇治川・木津川,桂川が合流して淀川となり,山陽道,山陰道,東海道の起点というべき交通の要衝でもある。
 
延暦6年(787)に「朕(ちん)水陸の便あるを以って都をこの邑(むら)に遷す」と天皇の詔(みことのり)が出され,翌年にも同様の詔が出されており,遷都理由を水運と交通の利便性であることが強調されている。
 
長岡京は,かつては「仮の都」,「未完の都」として歴史の教科書にもあまり取り上げられなかったが,地元の中山修一氏が生涯をかけて発掘調査を進め,大路・小路等の区画道路や住居跡,長岡宮の朝堂院(ちょうどういん),内裏(だいり)等の主要な宮殿官衙(きゅうでんかんが)跡や,遷都前に一時天皇の内裏となった東院跡も見つかり,短命ながら本格的に都城が造営されていたことが明らかになっている。
 
しかし,長岡京の南西部は山裾部分にあたり,京域東側は桂川が接して流れ,土地の標高は10m程で極めて低い,さらに京域内を暴れ川である小畑川や南西には小泉川も流れており,河川が氾濫して巨椋池が増水すれば,京域南東部は水没する低湿地であり,甚大な被害が出ることは明らかである。さらに,遷都理由が怨霊説としても,長岡京と平安京との間の距離は桂川を挟んで僅か3kmしか離れておらず,それで怨霊による災いから逃れることができるのか,はなはだ疑問である。
 
奈良時代は天智天皇以後,天武天皇系の血を引く天皇が続いて即位したが,奈良時代の終わりには天武系から天智系の血を引く光仁(こうにん)天皇が即位し,その皇子である桓武天皇の曾祖父は天智天皇である。天智天皇は西暦667年に飛鳥から大津宮に都を遷都し,比叡山東麓(大津市滋賀郷)の尾根上に崇福寺(すうふくじ)を創建された。その後,桓武天皇は天智天皇の追善供養のために延暦5年(786),同寺の境内近くに梵釈寺(ぼんしゃくじ)を建立,さらに平安京遷都に伴う新京の詔に「此の国山河襟帯(さんがきんたい)自然に城を作(な)す…近江国滋賀郡の古津は先帝の旧都,今輦下(いまれんか)に接す。昔号(じゃくごう)を追って大津と改称すべし」とあり,新京は山と川に囲まれて自然に城を形成し,そこは曾祖父が造った旧都に接すると書かれ,山科には天智天皇陵もあって曾祖父を強く意識していることが窺える。長岡京遷都が誤りとはいえないが,実弟を死に追いやった自責の念と,水害に対する都城の脆弱(ぜいじゃく)さに合わせて、天智天皇への追慕の念が平安京遷都へと繋がったのではないか。毎朝こんなことを考えてハンドルを握っている次第である。
 

 
 
文責:梶川敏夫
京都伝統文化の森推進協議会 文化的価値発信専門委員
京都女子大学文学部史学科 非常勤講師

 

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