2022年03月19日 伝統文化の森
賀茂のまつりと文化
田中 安比呂(賀茂別雷神社 宮司)
上賀茂神社の正式名称は賀茂別雷神社であり、平成六年に「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されております。京都に都が遷されたのが桓武天皇延暦十三年(七九四)ですが、遷都以前から祀られ且つ昔から変わらない境内の佇まいと、その中で行われるご祭典を今に続けている神社であり、最も古い神社と位置づけられております。
境内地計二十三万坪を有しておりますが、皆様がご来社され、お参り頂く境内が大凡二万坪であり九割は森や山です。
元明天皇様の御代、稗田阿礼が暗記していた日本の歴史を太安万侶が書き記した我が国にとって最も古い書物として『古事記』がございます。その後、元明天皇様の命で『風土記』が編纂されます。これは国毎の決まりや、神話等が記載されたもので、京都は山城国に属し山城国では『山城国風土記』が編纂されましたが現存せず、断片的に「逸文」として次の通り言い伝えられております。
当神社の神様の外祖父である賀茂建角身命は、大和の葛城山で初代天皇神武天皇のご東征に際して、八咫烏となって橿原宮まで先導をされました。その論功行賞として領地が与えられました。様々な地を移られる中で、ついに賀茂川を北上し「久我の国の北の山基」現在の京都市北区に定住され、その頃より「賀茂」と称するようになったと言われています。賀茂建角身命は丹波国の伊賀古夜日賣と結婚をされ、玉依日子という男子と玉依日賣という女子を授かりました。この玉依日賣は後の賀茂別雷神の母神となられる方です。
ある日、玉依日賣が、賀茂族が崇め祀るべき神の来臨を願い、「石川の瀬見の小川」(賀茂川)で禊をしておられますと、一本の丹塗矢が川上から流れてきます。玉依日賣は、その矢を拾い上げ家に持ち帰り、床の辺に挿し置きお休みになられました。すると、不思議なことに、玉依日賣はご懐妊され、男子を授かります。
その子が成人になり、賀茂建角身命、玉依日賣等が、八尋殿という大きな御殿を建て、神々をお招きになり、七日七夜の祝宴を催されました。祝宴の最後に、建角身命が、「汝の父と思う神に此の盃をあげなさい」と言われたところ、その子は盃を天に向けて投げられ「我が父は天つ神なり」と仰り、屋根を破り、大きな雷鳴とともに天に昇られました。この時、賀茂建角身命の名にちなみ賀茂別雷命と名付けられました。
このように賀茂別雷命は、天に昇ってしまわれましたが、御祖の神等は、賀茂別雷命が急にいなくなられたのを、大変嘆き悲しみ、もう一度我が子に会いたいものだと思っておられたところ、ある夜、玉依日賣の夢に賀茂別雷命が現れ、次のように言われました。「もし私にもう一度会おうとするなら、立派な衣装をつくり、火を焚き、鉾を捧げ、飾りをして馬を走らせ、奥山の榊をとって、飾りを施して、阿礼として立て、葵楓の葛をつくって、おごそかに、飾って待てば、私は地上に再び戻って来る」とのことでした。
そこで皆で相応しい場所を探した盛大な祭を行ったところ、天から賀茂別雷命が御降臨されたといいます。その御降臨なされた場所が当神社本殿から北北西二キロ先の神山という場所であり、その場所には磐座といわれる大きな岩があります。この神山に於いて古来祭祀が行っていたようですが、時を経て現在の地に最初の社殿が建立されましたのは、天武天皇六年(六七七)です。遙か神山を仰ぎ祭祀を行っておりました。社殿の建立以前は、境内に木を立て神様の依代としていました。境内には立砂といわれる円錐形の砂山がございますがこれは依代の名残です。これは一対となっており、その立砂の頂には夫々松の葉を立てられています。片方は二葉(陰)もう一方は三葉(陽)で陰陽を現していると言われております。
桓武天皇様が京都に都を定められたときに当神社を皇城鎮護の神社として御崇敬を賜り、以降歴代の天皇様にも陛下の御名代と致しまして御勅使様を御差遣ご奉仕を頂いておりますのが賀茂祭、通称「葵祭」です。平安時代以降ずっと続いております。
賀茂祭の起こりについては、『秦氏本系帳』の「賀茂乗馬」の条に記されています。欽明天皇の御代に、日本国中に風が吹き、雨が降り、国家の窮状が甚だしかったことから、卜部伊吉若日子に勅して、占わせたところ、賀茂大神の祟りであると奏しました。そこで欽明天皇は当神社に使いを遣わされ、四月吉日を選び、神託によって、馬に鈴をかけ、人は猪頭をかぶり、祭りを執り行いました。その結果、五穀豊穣、天下泰平となったとされ、この時の祭が賀茂祭の起源とされています。今日でも五月十五日には天皇陛下御名代である御勅使様をはじめ凡そ五百名の方々が京都御所から下鴨神社、そして当神社へと行列をなし御参向され、賀茂祭「社頭の儀」が斎行されております。
また、平安時代の後一条天皇様には伊勢神宮に倣って賀茂社も式年遷宮をするようお達しがございました。当神社の場合は二十一年目毎です。様々な事情からその後必ずしも二十一年目毎にはなりませんでしたが、明治時代までは御殿を新しく造替をし遷宮を行っております。去る平成二十七年に第四十二回式年遷宮をご奉仕させて頂きましたが、現在、本殿・権殿は国宝に指定されており、其他の御殿も重要文化財指定を受けておりますので壊して建て直すということは出来ませんので修復をもって遷宮を行っております。今回は、境内にございますおよそ六十棟の御殿の檜皮屋根の葺き替えを進め、多くの皆様のご協力をもってこれを完遂することが出来ました。翌年の平成二十八年十月には当時の天皇皇后両陛下、現在の上皇上皇后両陛下に御親拝頂きまして、大変に有り難く存じております。
以上、当神社について述べさせて頂きました。年間七十度に及ぶ祭典がありまして、いずれも鎌倉時代から斎行しているものばかりでございます。このようなまつり、文化を後世に継ぐことが私共の使命として今後も神明奉仕に勤めて参る所存であります。
文責:田中 安比呂
賀茂別雷神社 宮司