京都伝統文化の森プロジェクト

コラム

2020年02月21日 伝統文化の森

明治初めの上知令で今の京都ができた
高橋義人(京都伝統文化の森推進協議会 文化的価値発信専門委員

明治時代の初め、京都三山は荒廃が進み、あちこちが禿山状態になっていたということをご存知ですか。江戸時代にはきちんと手入れされていた京都の山々はどうして急に荒廃してしまったのでしょうか。

近代化のため乱伐されたと書かれているものが多いようですが、主たる原因は上知令にあります。明治4年と明治8年、明治政府は上知令を発布し、社寺が持っていた広大な領地のうち、境内を除く多くの土地を召し上げました。たとえば高台寺の寺領地はかつて95,047坪ありましたが、それが15,515坪に、清水寺の寺領地156,463坪は13,887坪になりました。それぞれほぼ6分の1と11分の1です。それまで社寺は、領知のなかにある田畑を小作人に貸し与え、人の集まる土地を縁日の業者に貸していました。そうした収入源が絶たれてしまうわけですから、社寺にとっては大変です。上知令が発布された後、実際に上知されるまでの間に、社寺は上知予定地内の立木を次々と伐採してしまいました。こうして京都三山の荒廃と禿山化が進みました。

 

荒廃してしまった京都三山の緑を取り戻そうとしたのは、第三代京都府知事になった北垣国道でした。北垣は、禿山となってしまったところに植林し、森林禁伐に力を注ぎました。しかし、森林保護のための一番いい方策は、京都三山を公園にすることです。公園なら、園内の樹々を切ってはならないことは明白になりますし、管理することも容易になるからです。京都三山ばかりではありません。北垣は、京都を昔のように山紫水明の都、緑に包まれた美しい古都とするため、山林のみならず、京都市全体を公園にするという雄大な計画を立てました。これは、イギリスのエベネザー・ハワード(1850-1928)が唱えた「田園都市」(庭園都市)の構想に似ていますが、提唱したのは北垣のほうがずっと前です。

 

京都三山の自然を守ろうとする立場からすれば、上知令はひどい悪政でした。今から見ると、明治政府がした政治にはおかしなものがたくさんありました。実際、音羽山の管理は清水寺に、嵐山の管理は天龍寺に任せておけば、森林はずっと見事に守られたことでしょう。しかし、京都が20世紀に近代都市として発展していく上では、上知令は必要でした。社寺はあまりにも広大な土地を所有し、それが、京都が近代都市として発展することを妨げていたからです。

上知令で社寺が取り上げられたのは山林ばかりではありません。京都市内の土地も接収されました。そのため、京都市の中心部には大きな空地が多数出現し、それが京都の公共施設づくりに役立ちました。その例を5つばかり挙げておきましょう。

 

第一は新京極です。新京極通のすぐ西側には寺町通(通称寺町京極)があります。寺町は、秀吉によってつくられました。秀吉は、外敵の襲来に備え、鴨川の氾濫から都を守るため、京都に御土居と呼ばれる堤防をつくりました。その際、洛中に散在していた多くの寺を集め、御土居に沿うように配置しました。これが寺町です。今でもここには天性寺、誓願寺、誠心院、西光寺、安養寺などの境内地が連なっています。かつては本能寺もここにありました。東寺の弘法市、北野天満宮の天神市を見ても分かるように、もともと寺の広い境内は人の集まる場所で、寺町の寺院の東側もすでに江戸時代から庶民の遊興の場となっていました。そこが上知されて新京極通となりました。これらの寺院の西側の寺町通が平安京の東京極大路に相当し、寺町京極と呼ばれていたため、この新しい通りは新京極と呼ばれようになったのです。新京極は、いわば寺の縁日が近代的に変貌した姿なのです。

 

第二は南禅寺界隈別荘群です。明治時代の京都三大事業と言われるものがあります。琵琶湖疏水、市電敷設のための道路拡張、上水道の整備の3つです。いずれも、北垣国道が推進したもので、北垣が名知事とされる所以です。琵琶湖疏水とともに、水力発電所も建設されることになりました。電気が得られるというので、いくつもの工場がここに進出しようとしましたが、北垣府政を継承した初代京都市長の内貴甚三郎は工場の建設を許可しませんでした。京都の風致保存のほうが大事だと考えたからです。工場に代るものとして京都市が選んだ用途は、広大な庭のある別荘地の造成でした。別荘地なら、東山山麓の風致を乱さないのみか、むしろ風致を向上させてくれます。たまたま京都を美しい庭園都市として残そうとしていた小川治兵衛(通称植治)というすばらしい庭師の存在にも恵まれて、南禅寺界隈は日本最高の別荘地として発展することができました。

 

第三は、祇園花見小路界隈です。祇園の四条通から南側の地域、花見小路のある地域は、江戸時代までは建仁寺の敷地でしたが、明治4年、上知令が発布され、建仁寺の北から北東にかけての寺領地約18,000坪が接収されました。上知された土地を払い下げられたのが祇園女紅場(通称、祇園甲部お茶屋組合)でした。坪1朱(1朱は5000円弱)という廉価でした。祇園の歌舞練場や花見小路を含む祇園の南側はこうして誕生しました。祇園女紅場は四条通に沿うようにして、南園小路、初音小路、青柳小路という東西の通り、さらに花見小路という南北の通りをつくりました。ここにはお茶屋が数多く設けられ、こうして祇園町南側は、今日見るような華やかな色街となって発展しました。

 

第四は、石塀小路です。ここは高台寺の塔頭だった圓徳院の境内の一部の上知によって生れました。上知令後、民間に払い下げられ、製茶の販売業者上村常次郎がここを宅地として開発しました。石畳を敷き詰めた路地と木造住宅という良質の開発で、ここはいま人気の観光地となっています。

 

最後は円山公園です。現在の円山公園の敷地は、もともと祇園社(八坂神社)、安養寺、長楽寺、双林寺、弁天堂の社寺領地でした。その土地のかなりの部分が上知され、公園になりました。もともとこの地は、寺院庭園、飲食店、祇園囃子といった遊興施設の集まっているところでした。それが公園になったのです。明治6年1月15日、知恩院の南側に広がる真葛ケ原一帯の社寺境内が太政官布達により円山公園として指定されました。当初は、社寺の境内の名前を変えただけで、もともと境内にあった寺院庭園、席貸、茶屋、遊興施設等はそのまま残されました。今でも円山公園には料亭、飲食店、見世物小屋などが点在しています。かつてこの地が社寺境内であった頃のものが、形を変えながら今日にいたるまで残っているのです。

明治23年、円山公園の管轄権が京都府から京都市に移管された後、公園は次第に拡張され、明治41年にほぼ現在の広さになりました。大正2年には公園東部一帯が小川治兵衛の手によって作り替えられ、中央に池のある現在の回遊式の日本庭園が生まれました。

小川治兵衛は昭和8年に没しましたが、そのときの新聞の追悼記事を読むと、小川治兵衛が京都を庭園都市にしようとしていたことがよく分かります。「京都を昔ながらの山紫水明の都にかへさねばならぬ」(大阪毎日新聞)というのが小川治兵衛の信念で、「翁は生前常に京都の誇りである風致問題について非常に頭をなやまし保存に全力をつくしてゐた」(京都日出新聞)そうです。今日の京都があるのは、多分に小川治兵衛のおかげです。彼のようなすぐれた庭師に恵まれた京都市は幸いでした。小川治兵衛の意を受け継いで、私たちも庭園都市としての京都を守ろうではありませんか。


山科運河付近:左右2カ所が乱伐されている
京都市上下水道局・田邉家資料

 


琵琶湖疏水第三隧道東口付近:禿山と化している
京都府レッドデータブック https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/eco/rs/2015rs03.html

 


明治中期の禿山とその砂防工事の光景
京都府レッドデータブック https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/eco/rs/2015rs03.html

文責:高橋義人
京都伝統文化の森推進協議会 文化的価値発信専門委員
平安女学院大学 国際観光学部 特任教授
京都大学名誉教授

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